悩めよわがおつむ

法科大学院で学ぶ学生が日々の学習記録と些細な思いの節を綴るブログ

疑わしきの答えは如何に

「疑わしきは被告人の利益 in dubio pro reo 」これは刑事司法制度を採用する各国で共通の基本原理です。

これは、刑事裁判にかけられている被告人を有罪とするかどうかについて、検察官が証明をしきれなかった場合の考え方となります。

つまり、検察官は被告人が犯罪を行ったということをあらゆる証拠を用いて証明しようとしますが、いまいち被告人が犯罪を行ったのかどうか断定できないような場合、怪しいと言えば怪しいけど、犯人とは言い切れない以上、犯人であると認定して有罪にはしないという慎重の現れです。

裁判という過程で、人が人を裁く以上、誤った結論を絶対に導いてはなりません。そのため、被告人が犯人だと断定できない限り裁判所は有罪判決を出せないのです。

 

さて、本題に入りますが最近大阪高裁で再審決定が出された事件がありました。

1995年に発生した、東住吉女児放火殺人事件です。

最近ニュースでよく取り上げられているため、知っている方も多いと思います。

東住吉事件 - Wikipedia

 

この事件は入浴中の女児が居る家屋に放火し、この女児を殺害し、保険金1500万を受け取ったとして、母親と内縁の夫が逮捕起訴され両者共に無期懲役の判決を受け、現在も服役をしている事件です。

 

そして取調べの中で、内縁の夫は「車庫に7ℓのガソリンを撒いて、車庫と直結している風呂釜に引火させて放火した」と自白しました。

しかし、弁護団の検証によると、7ℓのガソリンを撒き切る前に、気化したガソリンに風呂釜の種火が引火してしまうことが判明したため、自白通りに内縁の夫が行動したとすると、引火した炎に巻き込まれて大火傷を負っているはずであり、内縁の夫は無傷だった以上、取調べでの自白は警察に強要された嘘のものであると主張したのです。

 

こうなると、一度有罪判決を出した裁判の雲行きが怪しくなってきます。そのため、裁判所は再審決定を行い、再び裁判をやり直すこととしたのです。

しかし、裁判所は一度有罪判決を出したにも関わらずやり直すと決めたのですから、内心としては、この事件の母親と内縁の夫は無罪かもしれないという強い推定を抱いていることになります。

 

ここまでは、これまで再審決定を受け、実際に無罪判決を出した他の事件と共通しています。しかしこの事件で内縁の夫の自白が強要されたものであって真実でなかったとしても、この内縁の夫も母親も、無罪だ!とすぐさま思い浮かぶ人は少ないはずです。

 

それは、自白の件を除いてもこの事件には内縁の夫と母親を犯人だと認定しうる事情があったためです。

 

例えば、当時11歳の女児に生命保険をかけていたことです。通常、自分の子どもに生命保険をかけることはありません。当時、母親は200万円の借金を背負うほど貧困していたのでなおさらといえます。

また、内縁の夫は女児に対して性的虐待を行っていました。決して3人をめぐる関係が円満ではなかったといえます。

 

こうなると、自白が強要されたものであったとしても、この2人は犯人では?という疑いがかかります。

そんな時、思い出してほしいのが「疑わしきは被告人の利益に」です。

 

当初、裁判所は自白があったからこそ、他の証拠が充実していなくてもこの2人が有罪であると認めたのですが、その自白が嘘のものだとしたら、それ以外の証拠を通じて2人が有罪であると認められるかを考えなくてはなりません。

そして、今回の場合他に放火を行ったと疑わしい人物はいないし、女児と2人の関係には不自然な点もあるが、それだけでは犯人と断定することは困難、だから無罪の判決を考えるようになったのです。

 

この事件は、警察によって罪なき無実の人間が、濡れ衣を着させられたというこれまでの再審事件とは異なり、犯人かどうか疑わしいに過ぎない人物に有罪にしてしまったため再審決定がなされた事件として特徴的です。

 

おそらく、このまま2人には無罪判決が言い渡されますし、それは疑わしきは被告人の利益にという原則からして当然であり、そうあるべきと私は思います。

 

しかし、もう20年も前の事件です。真犯人は見つからないでしょう。

 

マスコミの報道でも、警察側の自白強要の悪性のみならず「疑わしきは被告人の利益に」という今回の決定を導いた最も重要な理念についての説明がなされればと思います。

 

どれだけ情報社会と呼ばれるようになっても、法律界の常識と一般の常識には雲より高い隔たりを取り除くにはいたって無いことを知る、そんな一件でした。